壊れたー!
2階のテレビは少し前から変だったけど、
声しか出ない画面に、とうとう家族も限界に。
そして昨晩・・・
1階のテレビも突然ブチッ!と。
そりゃナイよね〜〜!(悲)
これじゃバレーも観られないじゃん!(泣)
と言うことは
今夜はオデの車内で観戦?
・・・ホントか〜!?
■帰省日記♪
18日は義母と義兄と私達の6人でお出掛けすることに。
そして灼熱の関西を目指す・・・
と言うことはユニバーサル・スタジオ・ジャパン
と、なるのが近頃の傾向なんだろうけど
ウチの場合は・・・どぉ〜〜〜〜ん!!!と
『姫路城』 この日の気温36度
1993年に我が国で初めての世界文化遺産に登録された。
長い歴史の中で、一度も戦や災害に遭うことなく保存されている。
姫路城の始まりは1333年。
砦から小さな城へと変わり羽柴秀吉、木下家定と続いたのちに
関ヶ原の戦い後、1601年徳川家康の娘婿池田輝政が8年の歳月をかけて築いた城。
池田氏の後に入封した本多忠政が長男とその室、千姫のために(徳川秀忠の長女)
西の丸を整備したのが1618年。長い歴史を残す名城となって今に至る。
20年前に訪れた時、
『もう一度来たい』と思っていたけど、まさか子連れで来るとは・・・(笑)
正門前で。
見たことも無いスケールの大きさに、歴史好きの健太は思わず絶句。
『灯籠の台石』(上) と 『石棺』(下)
上画像の下に見える角張った石は灯籠に使われていた台石。築城の時に石が不足し、
石棺(左の四角形)なども使われた。
現存する古墳が少ないのは、こういう事もあったから?
『姥が石』
羽柴秀吉築城の時、貧しい老婆が石うすを寄附した。この噂が町中に広まって
多くの石が集まり、城の石垣が完成したと言われている。
その石は石垣の中でも丸い形をしており、現在でも金網で保護されながら残っている。
上左側画像の中心部(小さな白い部分)が噂の石。
城内に攻め入る敵を鉄砲で打ち倒すために作られた穴。
丸、四角、三角とデザインにもこだわって作られているところが姫路城の特徴。
大手門からまず「西の丸」へ入ると、とてつもなく長い廊下がある。
その廊下に沿って奥向きに勤める奥女中あるいは、御殿女中と呼ばれた女性たちが住んでいた部屋が、
いくつもあった。ここには下働きの女中も住んでおり、とても賑やかだったようだ。
西の丸から天守閣を見上げれば、とても間近に感じるのだが、
順路に沿って見学を始めてみると、その距離の長いことに驚く。
天守閣の中は外観5層、内部は地上6階地下1階という作り。
そして直径1m近い2本の柱が、5階の天上までとどいている。(階段脇の柱)
天守閣までの階段を登るときには、見学者が頭上の梁に頭をぶつけないよう、
赤いテープがぶら下がっていた(右画像)
狭くて急な階段に、当時は手すりが付いていたとは思えない。
敵の進入を妨げるための作りなんだろけど、慌てて落ちる人も居たのではないだろうか・・・・
な〜んて、当時のことを思い描きながら降りていたら・・・・ウチの子が落ちそうに!(笑)
天守閣最上階から外を見る。
地上から見た屋根は、すべて瓦で出来ていると思っていたが、ここまで登って
一部分は木製であることに気が付いた!(左画像)
と言っても発見したのは健太。
その瞬間の健太の顔ったら・・・素晴らしいほどに得意顔♪
画像では見えないが、裏側にうっすらと見えた文字は、昭和の大修理の際に書いたものだろうか。
どの窓からも、立派な鯱(しゃちほこ)が見える(右画像)
「なぜ鯱なの?」と、健太に聞かれたが・・・・
勉強不足というか、正直そこまで考えたことはなかった。
大手門に面した窓から南を望んでみる。
愛媛が誇る松山城は、あの鯱の向こうです〜♪(^^)
画像にはないが「お菊井戸」と呼ばれる井戸は「播州皿屋敷」にも登場する、
そう、「一枚、二枚・・・」の、あの井戸。
深く暗い井戸は、現在は金網でふさがれているが・・・アノお話を思い出すと、ちょい不気味。
当時は毒物を入れられないよう、井戸の周りには番人が居たそうです。
今でもこの井戸は枯れずに残り、1m近い水が上がって来るそうだ。
大手門から2時間かかった見学の最後が、この井戸となると・・・
気温36度でも背筋がゾッ〜〜。 お騒がせ画像になるといけないので、画像はなし!
平成の暑さと戦いながらの見学だったけど、東側の窓から入る風はとても気持ちよかった。
『国宝 姫路城』・・・魅力ある名城でした!
この大きさ!!!
石垣の高さだけでも驚きでしょ?
で、良〜〜〜く、見ると
石垣の下の真ん中辺りに、私と子供の3人が立っています・・・・・・見える?
大好きな城・・・長々と書いてしまいました。
お付き合いいただき、ありがとう♪